礼文凧 北海道礼文島

夢での礼文凧伝承
 わたしは、昭和35年生まれのごく平凡な叔父さんです。
今から、24・25年前、21・22歳頃の冬の事だったと想います。
仕事を終え帰宅したところ、甥っ子が小学校の工作で凧を作るといって凧作りをしておりました。
 眺めていると礼文凧を見ながら、たどたどしく親父に聞きながら鉛筆書き。
そもそも自分は、小さい頃から凧揚げが好きで、冬の山瀬の風の日は(東の風・北東の風)暗くなるまで凧の揚がる姿を眺めていたものです。
 で、ついついそこは違う、そこも違うと仕舞いには取り上げ自分で作り終えた。
 これが、今まで眠っていた『凧馬鹿少年期』を思い出す切っ掛けとなった訳です。
 礼文島の冬は、凧揚げかスキー。もっぱら凧を揚げといて、スキーを滑るそんな毎日の繰返し、だから本業の勉強なんてそっちのけな訳です。
 私には、出来の良い姉が二人いて、兄も二人いましたが生まれて1・2歳の頃二人とも病期で亡くなり、よく小さい頃三番目のさんたは凧揚げが好きでと、ばあさんに笑われました。何と誕生日も1月3日とあって、なおさらの事凧好きになったのかなとも思います。
 と、まーこんな感じで小さい頃を思い出しながら『凧作り』がハジマリました。


 好きだったバレーボールも止め、仕事だけは止めることは出来ませんでしたが。力仕事を終えた後は、手が震えて凧書きができないため骨作りをしたりと、とにかく凧・凧・凧叱られるかと思った親父には良い趣味をみつけたなと酒を飲みに歩くより絶対良いと太鼓判まーこの年(22・23歳)になって親が怖いわけでもなかったが何故かほっとした様な、うれしい様な・・・・・そんな感じの中で壁にぶつかり先代、『三上豊造』さんのものとは全然違う、似てるとか、真似るとかではなく、色や鉛筆づかいが全くわからなく礼文凧自体薄く・濃く遠い存在になりかけ試行錯誤していた、ある日の当直勤務の出来事でした。
 夢に、先代の三上の爺さんが特別出演してくれたのです。
色は、食紅と岩絵の具・髪の毛には刷毛をと、夢の中で手解きと伝えるのか伝えないのかとにかく、生前凧を買うのに一度だけしか会った事のない三上の爺さん本人でした。
 そもそも私が凧を始め何年かの頃には、三上の爺さんは他界されており三上さんの長男のお嫁さんが1人暮らしでおりました。
 そこで、夢を見た何日か後に電話で連絡を取り自作の凧を見せ夢の話をしたところ、遺品として取っておいた凧絵具や下絵等を全部貰い受ける事となった次第です。中には何百万で売ってくれないかという方もおりましたがと、小母さんは言っていました。
『これ全部あなたに差し上げます。その代わり、一生続けてください』たぶん、爺さんもあなたに続けてほしくて夢を見せたのだと思います・・・
以上の様な切っ掛け・馴れ初めでしょうか?。
 今、自分では、自分としての完成品とは云えませんが日夜凧作りに励んでおります。

秋元 真澄
1960年生まれ。日夜凧作りに励んでいます。
北海道礼文町在住。